技術者だけの自由を追求するのではなくすべての人の自由のために
こんにちは、オードリー・タン大臣。私はインターネット・アカデミーの有滝です。本日はタン大臣にインタビューできることを嬉しく思います。質問を始めていいでしょうか?
はい、もちろんです。
ありがとうございます。オードリー・タン大臣が初めてインターネットを使ったのは1993年の12歳の頃だと伺いました。初めてインターネットに触れた時はどう思いましたか?
インターネットを使う前は、私はパソコン通信のDell RBBSを使った掲示板システムなどに参加していました。しかし当時は、パソコン通信の最大の掲示板サイトでさえ、おそらく10から50本程度の電話回線しか持っていなかったのでしょう。ダイヤルしても繋がらないことがありました。そういうこともあって、Dell RBBSに繋がった時はいつも嬉しかったですね。しかしインターネットはダイヤル接続に決して失敗しませんでした。1度だけダイヤルアップ音を聴けばよかったのです。そして一度接続されると、インターネット上の異なる掲示板に接続することができましたし、その間切断することもありませんでした。それは、とても便利なことで、それと同時に自由な感じを覚えました。とても開放的な気分でした。
私たちは、インターネット・アカデミーの創業年であり、インターネットが広く普及し始めた年でもある1995年が事実上のインターネット元年だと考えています。台湾では1995年のインターネット利用状況はどのようなものでしたか?
どうだったでしょうか。私は1995年を、インターネット元年というよりWeb元年と捉えています。お話いただいた通り、私は1993年にはインターネットを使っていましたし、インターネット自体ももっと前からありましたからね。私はWebが本当に特別なものだと考えています。なぜなら私と呼ばれていた人が(パソコン通信の)掲示板を使っていた頃は、サイト運営者、つまりシステムオペレーターまたはシスオペと呼ばれていた人が、コンテンツだけでなく交流の仕方にまでも絶対的な力を持っているように感じていたからです。一方、常に接続できるインターネットも、全ての情報、全てのデータ、そしてその構成がとても集約的で、コンテンツと交流の仕方がシステムオペレーターによってコントロールされています。
しかしWebではそのようなことはありません。例えばハイパーリンクを張るというのは、基本的に「これは私がコントロールできることではないんだけれど、とにかく読んでほしい」という意味です。この仕組みがジャンルを超えた相互理解を促進させているのです。Web以前は、ある掲示板から別の掲示板へ遷移させたいなら、その掲示板の同意なしにはできませんでした。同意を得てもたくさんのコーディング作業を必要としました。しかし、ハイパーリンクやその他Web技術を使えば、知識がいわゆる「インターテキスチュアル・ナレッジ」と呼ばれるものになります。それが全ての人をより幸せにしたと思います。人々はWebが自分たちの居場所だとわかったからだと思います。誰でもWeb管理者になれます。Web管理者になるためにコーディングスキルは必要なく、少しのHTMLを学ぶだけいいのです。それらは掲示板システム全体をゼロから構築するのに比べれば、遥かに容易です。とにかく全く違うのです。誰もがコンテンツのクリエイターとなり、それをWeb上で共有できるのです。その自由は技術者だけのものではなく、文章を書く人のものでもあり、もちろん、音声や動画の変換技術によってレコーダーやカメラを持つ人にまで自由が広がりました。そして、ほとんどの人達に広がりました。
タン大臣は15歳から国境を越えたインターネット世界のためのルール作りに参加されています。例えばインターネット技術標準を策定するIETFでのインターネット上の規制作りや、Web技術標準化を行うW3Cでの通信ルールの取り決めなどです。なぜそれらの活動に参加しようと思ったのでしょうか?
それは面白いからです。それ以外の答えはありません。例えば、私はAtomの標準開発に参加しました。Atomとは、RSSつまりReally Simple Syndicationの後継の一つです。その頃、私はブログを持っていて、多くの友人もブログを持っていて、その時系列表示を作りたいと考えていましたが、時系列には、書式や時間などに様々な表示の方法があることに気づきました。標準が必要なのは明らかでした。それが理由で私はその作業に参加しました。なぜなら、ブログやWikiなどは出版する人や専門的な文献を読む人のためだけのものではなく、人々がお互いに交流するための社会組織である、いわゆる「ブロゴスフィア」になり得ると、私は信じているからです。一度により多くの人と交流できると、より楽しそうですよね。もちろん今になって振り返ると、人を多くすることが必ずしもより良いことではありません。しかし当時は、私たちはより多くの人々を繋げたかったのです。技術的な能力に左右されることなく、Unicodeや絵文字をルール化して、民族や文化や言語などを超えて繋げたかったのです。私が関わったその当時は、インターネットは全ての人にとってより楽しいものだったと思います。
タン大臣は33歳でビジネスから引退され、デジタル顧問としてアップル社のSiriの開発を担当されました。具体的には、Siriに上海語を話させるプロジェクトの責任者です。また、MacやiPhoneに内蔵されている繁体字中国語辞書をアップル社のシステムに統合されました。「システムに多言語を取り込む作業の支援が、ご自身の現在の仕事にも直接的・間接的に繋がっている」と著書で拝見しました。具体的にどういう点が今の仕事に繋がっていると思いますか?
まず訂正させていただくと、私は両者に貢献しましたが、プロジェクトマネージャーだったわけではありません。ですから正確には私はそのプロジェクトの責任者ではありません。貢献はしましたが。